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監物恒夫からの提言 いま切に思うこと・・・(長年神輿場を見てきた監物の心の叫び)

​【はじめに】

 私が神輿を撮り始めた頃は、東京の宮神輿は蔵で眠り続けていた。祭り日の蔵の前では「宮出しをしたが鳥居前で落とし、その後は重くて出ていない」とかの話で持ち切りでした。

私はこの頃には関西まで撮影範囲を広げていたので、神輿の大きさでは関西神輿の方が大きいことを知っていた。何故関西の神輿が大きいかというと関西は帝の渡御に牛車を使用しているのに対し関東の江戸では輿を使用している。江戸は城下町、大きな道を造る筈がないのである。敵に攻められた時、守る必要があるため出来る限り直線を少なくして十字路は筋違とした。

 戦前まで江戸神輿は4尺(台輪寸法)神輿が宮神輿の基準である。これに対し関西神輿は160㎝や170㎝の神輿が江戸時代初期にすでにある。それと根本的に違うのは分厚い錺金具。山王総本宮日吉大社で、まだ国指定重要文化財神輿が山王祭で出御している頃、この年の祭典委員長が知り合いの方でしたので、今では考えられないことが実現できた。私の友人は重文神輿の隅瓔珞を持たせてもらったのである。その重さは今でも手のひらに残っているという。また、関東で多くの神輿を舁いている他の友人は京都松尾大社の宗像社の八角神輿を舁いている。後日感想を求めると「ただ一言重い」と言っていた。関西神輿は本日渡御には重厚な錺金具を装着し、神社を出御してくる。

 

【最近の神輿渡御】

 関西神輿の渡御の基本には古式祭が底辺に流れ連綿と続けられている。京都松尾大社は神幸祭(出御祭)では一時中断した桂川の舟渡しを、当時六社連合会長の橋本武尚様が復活させた。

この祭りは月読社、四之社、衣手社、三宮社、宗像社、櫟谷社、大宮社(月読社は唐櫃、他は神輿)の順に神幸祭、還幸祭とも順番は変えないで渡御する。東京でも神幸祭といえば台車に乗った鳳輦(神輿)が二基、三基と続けて渡るが、鳳輦は台車で渡御して、神輿は舁いていくものと思っている人もいる。しかし、本来は共に舁くものである。天皇陛下がお乗りに輿は鳳輦と思われる人も間違いである。馬車に鳳凰が乗っていれば鳳輦である。

滋賀県大津市の日吉大社の本日神輿渡御は西本宮(旧大宮)、東本宮(旧二宮)、宇佐宮、牛尾宮、白山宮、樹下宮、三宮の順に渡御する古式祭である。

 

 一方関東神輿は浅草三社祭のように三方向へ分かれて渡御する。これでは神幸祭ではなく神輿担ぎである。江戸時代この祭りも浅草御門前に三基揃って渡御した。正に神幸祭であった。

 昨年文京区小石川の白山神社で、徳川家と由緒深き伝通院の山門へ向かって渡御、突き当りを右折し、平舁きで大通りへと向かう。揉みばかりだけでない渡御こそ本来の渡御である。この時のカットは「神さまがくださったご褒美」としたコーナーを作りご覧頂きたいと思っています。正に格調高い宮神輿であった。

 今年6月品川区で第1京浜国道に面する神社は一番大きな神輿を担いで出た。この神輿は昭和48年、大正13年以来途絶えていた神輿担ぎが再興した年であるが、第一京浜を通行止めにして担ぐが、左右にブレ、一か所でグルグル回り驚いた記憶がある。この神輿はその後も同じような担ぎをしており、少しは工夫がされるかと期待したが、今も全く変化がなかった。明治作の神輿が出来た時の道路事情を考えると本来の東海道を渡御した筈である。

関西での渡御では、本来の街道に接している神社は必ずこの街道を渡御する。毎年の渡御なので周到の準備で安全な渡御をする。警察官がマイクで指図することはない。

 

【神輿撮影のマナーや舁き手に思うこと】

 最近最も多いのは一本脚にカメラかビデオを着け脚は頭上高く持上げ撮影。後方の撮影者のことは考えず撮影する。私はスチル撮影であるので定位置で待つ。昔は後ろの人を気遣い、撮影が済むとサッと立ち退く。私は最初よりフィルムのカメラで育ち、ネガ・ポジフィルムを使いこなした。特にポジフィルムはコダクロームを使いフィルム感度ASA25であった。

フィルムはファインダー内の矩形を無駄にせずトリミングをせずに完成させるのが基本である。先輩諸氏の原板を拝見した時、これがカメラマンなのだと肝に銘じている。

 今や神輿の周りには見物人(上記の接近撮影者も同類)が手軽に撮影できるスマホなどを手にし、法被・半纏着用で本来の意味を欠落している担ぎ手が多い。そんな気持ちだから神輿を担いでの記念撮影ができる。

 関西神輿の駕輿丁は腰を切る為、ぴったりとはくっつかず、必ず間隔を空ける。江戸神輿のように3分担げばそれ以上無理とか言われ続けていたが、関西の500貫神輿を最低でも20~30分ぐらいは舁かされる。

神輿は神社をお立ちすると御旅所まで降ろすことはない。

 

 また、東京で宮神輿を舁くとき、最近は「白法被・白半纏」を着用することが多くなったが、「なぜ白なのか?」考えてほしい

 

 

【切なる願い】
 年毎に出御する神輿。1年に1度だけ神様と氏子の肩が轅(舁き棒)を通して接して入れる日が神幸祭である。
ここでこの神幸祭の中心は何でしょうか?粋な半纏の若衆ですか?鳶頭の粋な熟しでしょうか?
もうお気付きでしょう。そうです主役は神輿なのです。もっと詳しくいえば神輿の中の神様です。
神輿を舁く(関東・担ぎ手、関西・駕輿丁)人も神輿の周囲の人も全ての人が神輿を警護しているのです。

江戸時代の古文書の神輿の記述には武士が帯刀で警護します。多くの祭りに大名行列が付きますが、本来の目的は警護です。大名が自らを守るように神様にも警護を付けました。

こうした神輿の前で轅に乗ったり、喧嘩をしたりするものでしょうか?錺紐の締め方も同じなんです。

 東京など大都市周辺では本来氏子責務である担ぎ手を周辺都市の神輿好きの集団(同好会・愛好会)に委ねているのが現状である。
同好会が助っ人として頑張った頃は素晴らしかったが、一部では氏子の祭り復帰で変化がみえてきた。同好会は毎週日曜日、どこかの祭りで神輿を担いでいるが氏子は一年に1度の氏神様の時しか担がない人もいる。そして神輿担ぎのリズムである。昔は「わっしょい、わっしょい」の掛け声で今でいう平担ぎであったので問題はなかったが、今では「おりゃやそいや」など掛け声に変化した。昭和50年の頃は華棒の担ぎ手は腕を轅に巻いて担いだ。今ではそっくり返り担ぐので左右に振れる。担ぎ手の足は軽いリズムを踏み神輿が上下する。

地方では同じ舁き方で御旅所へ赴くことは少ない。神輿は毎年決められた神幸道を行く。都市部のように手を挙げて「パチパチ」手打ちをしたりすることは観られない。
 

 祭礼にはルールがある。この基本を守らないと事故、怪我の元である。

撮影に当たって場所を決め何時間も前より待っていざ撮影という際に、数分後に通過する神輿の空間を残せなかったことは何十回もある。だから今では撮影に適さない祭りは行かない。

祭礼は運動会ではなし、日本が世界に誇れる文化である。氏神様と氏子が直接触れ合える貴重な文化で、このような文化に未だ日本以外で出会ったことがない。

 この本来の祭礼の意味をよく考え、間違った文化として伝えていかないで欲しいと切に願う。
 

​令和元年9月記

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