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第ニ回 神輿の轅(ながえ)には何故上がらないのか。

第一回の時、轅の上に何故人を乗せないのか書いたつもりであったが、ちょっと遠まわし表現のきらいがあったので、実例をあげてわかりやすく再度書き改めてみたい。

滋賀県湖東の大社の祭礼でのことで、神輿は還幸のため大社前にさしかかっていた。大社前は万余の人々でごった返して一炊の余地もない中を進む神輿。反り橋を渡り、神門をくぐった途端、舁輿丁(かよちょう)の一人が興奮の余り轅の上にあがってしまった。それをみた神職一人がその行為を制しに割り込んだ。穏やかな口調で一言諭したとみえた。神輿の轅には何人たりとも乗せないという信念で望んだと思える。この行為に舁輿丁も我にかえり頭を掻きながら素直におりた。

 日常とは違い精神状態が異常と思える状態が祭りには付き物であるが、神の輿を尊び永い伝統文化を受け継ぐことこそ重要な神輿神事であろう。フェステバルのような一過性のものと神社祭礼は同じものでは決してない。私の神輿の先輩であるH氏曰く「神輿の上に乗って神様に汚い尻(けつ)を向けるとは失礼であろう」と語られる。誠に同感、ようを得た表現である。関東の一部以外神輿の上に乗る所はないと言っても過言ではない。

 最後に昭和50年代の東京浅草の三社祭りは、神社神輿渡御の報道には「江戸の華・いなせな若衆」などのタイトルで神輿の写真が掲載された。そのほとんどが神輿の上に人が乗っている写真であった。こんな媒体が日本全土に伝わったが、地方では町内会の御輿や神輿愛好会の御輿は担ぎ棒の上に乗ったりするが、伝統の神社の御霊を移した神輿には決して乗らない。三社祭りも今では何人たりとも神輿の轅に乗ることを禁じている。人が乗らない浅草神社神輿に神社神輿の風格が漂ってきた。

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