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改元とアクシデント

​【はじめに】

 2020年9月を迎え、今はリハビリに専念し元の体に戻したいと思っております。思い起こせば昨年4月より病院通いになり、7月より治療が始まり、8月より長期入院が始まりました。長期で病院のベットに臥せっていると、暇を持て余すせいか考えなくてもよいことを考えて情緒不安定に陥る。入院から退院までを振り返ってみると、私の退院までの過程を書き記し多くの患者さんがそれを見ることでわずかでも気が落ち着けられればとの思いから綴ってみました。長期入院は心身とも疲れ果て、些細な事でも目くじらをたててしまうこともある不安定な精神の行動は、長期入院した私も数回起こしてしまった。

 

入院までの過程はこのようであった。病名は髄膜腫で2019年4月にみつかった。実は20年前に髄膜腫の手術を受けていたので、再発である。この時の手術時間は14時間かかり、それ以後毎年検査を受けていた。検査の結果を伺いにいくと、主治医の先生から「髄膜腫ですから手術しましょう」と言われた。ただ、前の手術は20年前で、まだ若かったので少なからず体力に自信があったが、今はあのような体力が残されているのか、甚だ疑問に思えました。検査入院も終わり、手術日が決まっていたが、手術前の外来診療の数日前、主治医の先生よりご連絡を頂き、先生にお会いしお話をお伺いした。「本来ならば髄膜腫は手術で対処するものですが、腫瘍のある位置が問題で、より安全な方法で治療したい」とのお話をされた。そして、手術から放射線に治療方針が変わった。私はこの先生にすべてを委ねたいと思った。

 

【日吉大社と重文神輿】

 手術前に大津坂本の日吉大社の山王祭りへ行った。久しぶりに12・13・14日の3日間を予定していた。12日は牛尾山に登り神輿が牛尾山からお下りする姿を見た。13日は宵宮の落としを、14日は本日を観戦して帰ろうと思ったが、途中雨のため失礼した。この祭りを観てから整理をつけて病と闘おうと決めていた。

入院して私を救ってくれたのは、長年続けてきた神輿の研究であった。人間長期にわたり同じように過ごすことはかなり強い意志持っている人でないと難しいと思える。生まれて初めて味わった長期入院、最初は心身とも病にたちむかったが、継続は甚だ難しいものだと思った。

そんな心を支えたのは、いつも目標としていた『神輿研究』であった。健康であった頃は全国の神輿を追い続けていたが、今は病との戦いである。初めて見た神輿に感動し、神輿を研究するのが楽しかった。

私の大好きな神輿は滋賀県大津市坂本の日吉大社の国指定重要文化財である七基の神輿です。この神輿で多くのことを学んだ。ここの祭りは天下の勇祭「日吉山王祭り」で毎年行われる。3月には神輿二基を牛尾山に上げ、4月12日にはその神輿に御霊を迎え山上より勇壮にお下りする。この日より日吉大社の神輿神事が繰り広げられるが、諸神事は791年桓武天皇より二基の神輿を拝領し、この時を起源に歴史上に「北嶺の神輿」として江湖に轟かせた。そしてここの神輿は新造されるたびに常に御所で造進され「美の権化」として多くの古書に書き記されている。こうして燦然と輝いた神輿も、現在保存されている重文神輿として幕を閉じた。他にはこうした例はない。こうした歴史を受け継いだ日吉大社の山王祭りは歴史を毎年繰り返し行われているように思える。4月12日の午の神事は牛尾山より二基の神輿がお下りするが、この光景は正しく比叡山山上の根本中堂より強訴のため山上に振り上げられた日吉大社の神輿が、雲母坂を下り御所を目指し舁き下ろされて行く姿を彷彿させる。山上に振り上げられた神輿は現在祭りで行われる13日の宵宮落としでは大政所で神輿を前後に振り動かされるが、これを神輿振りといわれている。祭りで重文神輿を使用していた頃は「ドシーン、ドシーン」と琵琶湖岸まで鳴り響いたといわれている。この音を聞いて多くの人が宵宮場に行く準備をした話は多くの人から聞いている。強訴の頃はおそらく山上で篝火などにより明るく照らされ、宵宮場のごとく神輿振りがあり、京の民を奮いあがらせたことだろう。この神輿は天皇より拝領したものだから尚更であった。

日吉大社午の神事。牛尾山を下る神輿。

日吉大社午の神事。牛尾山を下る神輿。

 多くの祭りで毎年同じ神幸道を渡御するが、渡御道の路傍の石仏に出会うと年代ものの神輿であればあるほど多年にわたり石仏との交わりを年毎に必ず挨拶を交わしているのだろうと思うと胸がワクワクする。この情景は平和だから味わえるものでもある。このような事の反面、歴史にこうしたことも多く聞いた。戦争で出征する時、弾除けのため神輿を舁いたという話を聞いた。神に寄り添う民の心情を切実に思い知らされる話である。

平和な時代に由緒ある神輿に出会えた時の喜びは至福の時でもある。

 

 神輿渡御で神輿は勿論大切な要素ですが、周囲の景観も大事な要素です。以前山口県の萩へ行った時、住吉神社の神輿が長門萩藩御用達だった菊屋家前にさしかかった時、渡御の光景が変わった。この住宅は萩藩御用達を務めた豪商で幕府巡見使が本陣宿として使われた由緒ある邸宅である。当然萩藩主毛利侯も度々お忍びで訪れたようだ。このカットは江戸時代にタイムスリップしたような独立した空間で今も鮮明に覚えている。私は萩へ旅した時は必ず菊屋家を訪ねるこの素晴らしい文化を味わうために・・・・

この他全国には多くの景観を楽しませてくれる土地がある。こうした場所に出会えた時の喜びがあるので元気になりたい。

 

【東京柴又の景観】

 病院でリハビリ中、リハビリ担当の先生との話題で東京の葛飾柴又が出た。先生は柴又育ちである。柴又は帝釈天の門前町で老若男女が集う東京の名称でもある。

かつて山田洋次監督、渥美清主演の映画「男はつらいよ」の舞台になった門前町一帯に開発の話が出たという。その話をお聞きし唖然とした。「男はつらいよ」がこの下町と人情味ある町を救ったと思った。私はいつも考える。新潟出首相が列島改造で日本全土が所得倍増で良くなると旗振りをした。確かに物質は良くなったかも知れないが、それまでの人情が失われた。格差社会が広がり年々貧富の格差が目に見えて表面化してくる。ギクシャクした世の中で新幹線の駅を主要都市より外れた町に誘致し駅を作った代議士もいた。これ以降新しいものを作れる人が尊ばれ、新幹線時代になると東海道新幹線が当然黒字になった。当たり前である。東海道の在来線は新幹線がない時は黒字だった。東北本線もまた新幹線ができるまでは黒字路線であった。その後次々に作られる新幹線は在来線が赤字路線だったので、国鉄は新幹線と在来線を管理することができなくなり分離されていった。

かなり脱線してしまったが、柴又は何も考えない開発の業者の手を逃れ、文化を大切にする道を選んだ。今の東京で観光客が訪れる所は台東区や文京区であろう。浅草の仲見世通りや文京区の谷中は下町の良き姿を残している。新しい箱のビルが好きという人もいると思う。私は浅草の浅草寺や柴又の帝釈天に訪れると気分が良くなる。全国で開発を見た時、社寺が鎮座しているので開発の手がつけられない所が多い。

 

残念だったのは昭和39年(1964)東京オリンピックが開催された国立競技場を壊してしまったことだ。開会式の時、アジア大会で使用された歴史ある、あのアンツ―カーのグラウンドを聖火最終走者の坂井義則さんが走りぬき、聖火台の階段を上りきり、聖火台に点火された時、被爆で苦しんでいる人たちに平和の祭典であるであるオリンピックを機会に全世界で平和を迎えられることを願っていたと感じた。確か当時坂井さんは早大生で広島出身だと記憶している。あの原子爆弾は戦争を早く終結するために投下されたといわれた。しかしアメリカ人のマッカーサー元帥も後に大統領になったアイゼンハワー将軍も原爆投下には反対だったと知った。日本軍も最初はサイパン島が陥落したら敗戦と決めていたらしいが陥落しても抵抗し続けた。沖縄も陥落。この時開戦以来不沈戦艦と謳われた「軍艦大和」も護衛飛行機もなく沖縄へ向け出港したがアメリカの航空機により海底の藻屑となった。この沖縄特攻は負けて戦利品として持って行かれるのを防いだことだろう。1945(昭和20)年8月6日に広島に、9日に長崎に、二発の原子爆弾が投下されたのは軍備拡張で最先端を固辞したいと思って試験的に投下したものであろう。尊い命をもっと早い決断で守れたことが、戦争ではまったく正常な精神状態ではなくなることである。今も第一主義を唱えている大統領はいるが、あの国は同盟重視の国で過去の歴史が証明している。

 

そして世界は遺跡や建造物を大切に保存する。ナチスドイツ下で1936年8月開催されたベルリンオリンピックのメインスタジアムは今も残されている。負の遺産である建造物も大切にしてそこから得る歴史の生き証人を教訓として学んでいる。

 

【自然災害の恐怖】
 

 私にとって景観が美しい町に訪れた時の感覚は何よりも代えがたいものです。昨今青山や外苑辺りを再開発するという記事が新聞に載りました。東京湾沿いの開発が済んだら、今度は江戸時代武士が居住した土地の再開発。どうして再開発が必要なのかどうしても理解できません。新しい何の魅力もない箱ビルを造り転売で利益を稼ぐ旧態依然の方法で利潤だけを追求している開発関係者に言えることは、新木場の埋め立て地と江戸時代から人が住めるような青山ではまったく違う。青山には何十年、何百年もこの地に幸をもたらした木々の緑や四季折々の草花が咲き乱れる、

青山はおそらく大きな地震がきても耐えられると思う。江戸時代より大きな災害に遭遇した街は災害のたびごとに改良されていった。昨年の10月12日台風19号が本来の東海道を襲った。方々で大きな被害を出したが東海道は無事であった。

江戸時代の幕府作事方の作業は驚くべきものである。諸国大名の参勤交代などは五街道を通行し、何か事が起きれば取り返しがつかないことになる。責任者は無事を願い道路普請をした。街道調査で「これが旧道です」と教えられたことがあった。切通しは幕末には多く外国人によりもたらされた技術である。静岡県三島より熱海を通り小田原までの道は幕府では根府川通と呼んでいました。三島より下田街道を進み大場(三島市)で分かれて熱海をめざす。熱海を目指したので熱海街道ともいわれる。ここでは阿波徳島藩蜂須賀家のお姫様が熱海に湯治のために通行している。本道は軽井沢(静岡県函南町)へ進み、真っ直ぐの竹林の小道が熱海道で左にカーブしているのが明治に造られた国道である。熱海道は急峻な坂の連続で登り切った所が「峠」である(通称軽井沢峠)。本来はこの付近より日金への道や熱海へ下る熱海道があったが、開発ですべて消え去られた。国道を上がってくると頂上付近に切通があるが、こうした道は明治を迎えなければ計画すらも出来なかった。

                                   

 ここ数年来異常気象が目立ち、昨年の千葉を襲った台風15号は、信じられない被害をもたらした。海水温が異常に高く台風の勢力が衰えないなどで甚大なる被害をもたらした。今年9月アメリカで森林火災がおきて焼け続けている。なんと東京都の面積の4倍の面積を焼失し、今なお延焼中である。植物や木材は二酸化炭素を吸収し酸素を放出している。ブラジルのアマゾンでも一時森林伐採で問題になった。今は植樹をし、元の姿に戻そうと頑張っている。子供達も植樹している姿をテレビで観た時、世界は一つになり協力してかけがえのない地球を守らなければならないと考えた。

スウェーデンの環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんやインドネシアのメラティ・ワイゼンさんは地球温暖化によってもたらせるリスクを回避させる運動をしている十代の活動家である。世界の政治家の中で40年先を見通す目でないと政治家には向かないといわれている。国の機関の東京一極集中は以前より危険と言われ続けて地方に分散と言われ続けてきましたが、文化庁が京都に移転されたぐらいでまったく手つかずの状態である。

 

東京の空の玄関口の空港は国際線を成田空港、国内線は羽田空港と住み分けたのですが、方針が変わり羽田空港は一度撤退した国際線が再び戻ってきました。

アメリカのデルタ航空は成田空港をハブ空港にする計画でしたが、成田を捨て全便羽田発着に切り替えた。デルタ航空は国の方針を簡単にして変更してしまいます。外国の航空会社は一度決めた路線など滅多に変更しません。以前ですが外国の航空会社の乗務員の方とお話した折、今は韓国の仁川空港でハブ空港になっていますが、本来は成田にしたかったとおっしゃっておりました。

先を見越した方針が災害対策には必要となってくると心より思います。

【高御座と御帳台】

 昨年10月22日今上陛下が即位され、平成の世と同じく高御座と御帳台が特別公開された。

高御座は神輿の原点ともいわれていたが、平成の公開の時は京都御所のみで、行く日に仕事が入りやむなく中止した。

そして令和の公開が決まりやっと観ることが出来ると思った矢先入院、「今度もダメか」と一瞬思ったが、リハビリを精一杯やった。公開日は12月22日から25日と1月2日より19日までの期間であった。

リハビリの先生に「国立博物館で公開される高御座を観たいので行かせてください」と頼んでみた。快く了承して頂き、1月9日と決まった。当日天候晴、車椅子での訪問である。会場に入ると眼前に高御座と御帳台が迫る、基台高欄は朱塗りの刎高欄、屋蓋(蓋→正式名称はきぬがさというらしい)は緩い照り起りである。屋蓋下より蕨手が出て蕨手上には小鳳凰が飾られ、路盤上には大鳳凰が載せてある。関西神輿にも高御座に似通ったものがあるが、私にはもっと勉強しなければ理解できないことが多すぎた。本物の文化にめぐりあえた喜びは、絶対病を克服し、より多くの日本の文化を見たいと思った。

高御座と御帳台は今年3月に京都御所で公開されることになっていたが、新型コロナウイルスで延期され、8月に公開されたと思われる。一度でいいから紫宸殿内の高御座と御帳台を観てみたい。神輿同様にいつも収まっている空間の姿をこの目に焼き付けたい。

 

 リハビリを精一杯頑張り元の姿に近づいたら、日吉大社の重要文化財の神輿に会いに行き、私の夢である東京に日吉大社の神輿を持ってきて本郷の病院の談話室から眺めたあのお社に渡御し、緋綱の宮神輿と対面させたい。この社は明治まで上野寛永寺が別当であった。

今、この社のことを書き始めている。本来関係深い社寺が文化や歴史を通し再確認してほしいと願っています。さぁ頑張るぞ    宜しくお願い致します。

​令和2年9月記

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