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第三回 神社の御霊が移された神輿に何故駒札が付くの?

御輿の屋蓋の一番上に露盤(ろばん)があるが、この前に将棋の駒の形をした札が下がっている、あれが「駒札」である。駒札は本来山車の前に吊り下げられている『一番○○』と墨書されたあの札である。山車は神社神輿が出御する際神社広前に居並び、神輿が宮を発たれて行くのを見送ったり、神輿行列の先駆をしたり、また御旅所で居並び神輿の着御を待つという形式が今では多い。この並ぶ順番はいろいろな方法で決められるが、山車にはその順番の札が付けられる。この順番の選び方はその土地、土地で仕来りがあるので別の機会で語りたい。

 駒札が何故御輿に付くようになったのか東京の例で説明したい。町内会の保有する山車が明治時代に廃れていった。山車はもともと一町内会で保有するには運営経費がかかり過ぎて、江戸時代においても数ヶ町に1台が結構多い。江戸山王祭礼の1番・2番などの有名山車の保有する町内の経済力は他を圧しているのがわかる。(神田明神祭礼も山車順の1・2番は同じ)この事を書き始めると枚挙にいとまがないので別の機会で説明したい。
 山車を失った民衆は何を求めたか。当時の神輿といえば神社の御霊を移した神輿だけで当然神輿の舁輿丁(かよちょう)も決められていた。祭りに参加したい民衆は山車よりも製造原価の安い町内会御輿を1町会ことに製作した。このことが現在いわれる大正・昭和初期に宮大工同士の対抗意識がでて、今に残る名品が世に登場した。町内会の御輿は神社神輿を参考に製作されたため、屋蓋の紋は当然神社神紋になった。各町内会御輿が数台連なって担がれることを連合渡御というが、この場合同じ紋の神輿が何台も続くので、どこの町内会の御輿だかわからなくなってしまう。ここで登場したのが『駒札』である。かたや神社の御霊を移した神輿の渡御は 社号旗を先頭に大抵は行列を組むので、神輿はどこの神社のものかすぐわかる筈だが、最近は町内会御輿同様に駒札をつけた神輿も多い。露盤に彫られた彫刻、蕨手(わらびて)彫刻こんな所に昼間から提灯をつけて渡る神輿に幻滅している。

 宮神輿の製作を依頼された時の宮師と会話を交わしたことがある。ぽつりぽつりと語られる言葉の端はしに構想を練る姿をみた。その眼差しには100年後いや200年後に残された神輿は宮師の名を汚さぬよう精一杯で望む気迫が感じられた。神社の御霊を移されている神輿に駒札や昼間の提灯(相模の神輿の身部角提灯は伝統文化でありむしろ守ってほしい)を付けることは、精魂こめて製作した宮師・餝師(かざりし)などに大変失礼である。何かを付けることにより神輿そのもののバランスが崩れることにもっと気を使って頂きたい。それに対し町内会の御輿は駒札を付けたり、提灯を付けたりしてアピールしても良いと思われる。浅草三社祭の神社神輿渡御の前日に町内会の御輿が浅草寺裏に集合して浅草神社へ詣でて浅草寺本堂前で各方面に散会して行くが、この時の町内会御輿の正面駒札には、「南一番」とかの札を上げているのがみえる。これこそが順番札である。その反対側(後ろ)には「○○町」の駒札が付く。正面の駒札こそ現在まで受け継がれた歴史であろう。

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