神輿解説 第五回 長野県松本市深志 深志神社 平成29年(2017)12月記
この神社には二社(二基)の神輿がある。一社は宮村宮(諏訪大神)でもう一社は京都北野天満宮より勧請したといわれる天満宮(天神)である。神輿は時の松本城主水野忠直寄進で元禄11年6月25日作である。この二社は現在松本市の市の文化財に指定されているが、年毎に二社の内の一社は肩で舁かれるのである。文化財に指定されると、大半は壊れるとかいわれ、神輿庫や収蔵庫で保存され飾られるのが現状である。全国の国指定重要文化財神輿の大半を拝見したが唯一一社のみを除いて形だけのものである。これについては後半に述べさせてもらうが、最初はこの神輿の偉大なる特長を書き記してみたい。
江戸時代信州松本は上方より江戸下向の際、中山道の木曽路を過ぎると尾張藩領から松本藩領に代わる。松本藩領第1の宿は本山宿でその次は洗馬(せば)宿である。この宿場で中山道と善光寺道が分かれる。善光寺とはあの有名な名刹の長野善光寺である。江戸後期この街道を通行して善光寺詣でに旅した日誌が多く残る。この街道の最大の宿場であったのが松本である。
神輿製作年代の元禄はどのような文化であったのかと考えるとこの神輿の特長が見えてくる。当時の文化は江戸の文化か亰文化かを基礎にして見てみますとまず露盤は箱枡、屋蓋は銅板葺きこの銅版も当時の銅版の大きさ(当時の銅版の大きさでは限界があり屋蓋全体を一枚で覆うことは不可能)を継いで屋蓋全体を覆うもので、この神輿に限らず古神輿は全てこの繋ぎの方法で仕上げている。次に蕨手をみると江戸神輿のように野筋からではなく隅木より出て緩やかな巻で優雅である。胴は極彩色で斗栱の大斗肘木は美しい。またこの部分には金箔のような箔があり、今よりもっときらびやかな装いをしていたと思える。力綱も真紅の布で覆われ、俗にいわれる鳳輦の振り止めの形態をとっているので蕨手より垂下をしていない。以上のことから当時全国流布していたのは京文化でこの神輿も例外にもれず京文化の影響受けた神輿である。因みに江戸文化は江戸後期に漸く広まってものである。
宮村宮神輿屋蓋の大金物及び板瓔珞、基台部には梶の葉紋、天満宮神輿の屋蓋の大金物及び板瓔珞には梅鉢紋そして基台部には三階松紋(これは北野天満宮の紋か?)が施された品格を持つ宮神輿である。基台部(下台)の三尺七寸は城下町神輿では大型に属し、重心を下方にした典型的な一品である。
このような神輿を年毎に一年交代で舁き出させる神社とそれを大切に扱う氏子組織の奉昇する会である「松深會」の方々の努力に唯々脱帽するのみである。
神輿本来の姿を一年に一度取り戻すとき、元禄の時この神輿を手にした氏子が受けた感動を再現するのが祭りと考える者にとって毎年この神輿に接することが最良の喜びである。そしてこれが神輿の本来の姿と思える。
◎深志神社 鎮座地:長野県松本市深志3-7-43

舞台(当地では山車の事をこのようにいう。)が居並ぶ前を
宮村宮神輿が出御する。
神輿は松本市重要文化財だが、舞台も松本市重要有形
民俗文化財である。
平成22年7月25日

還幸する宮村宮神輿(前)と天満宮神輿。
平成25年7月25日

還幸する天満宮神輿(右)と宮村宮新神輿。
平成23年7月25日

平成26年天満宮ご鎮座四百年大祭で
市重文指定の神輿が渡御した。
社殿前の天満宮神輿(手前)と宮村宮神輿。

天満宮ご鎮座四百年大祭で中町を渡る
宮村宮神輿(前)と天満宮神輿。

還御する天満宮神輿(手前)と宮村宮神輿。
四百年大祭にて