top of page

神輿紀行(6回) ――岡山 瀬戸内 牛窓神社編――

 牛窓(うしまど)、この地名を初めて知ったのは中学生の頃で、諸国の大名の参勤交代は大量の失費を強いられ、教科書記載の「五街道を通行した」だけの説明だけでは納得出来なかった。そのひとつに大半の大名は五街道からはずれた所に領地を持っているから、脇街道を通行し最終的には五街道に入ったといわれる。
 西国大名は正にこれで調べてみると、殆どの大名は瀬戸内海を大坂まで船を使い、そこから陸路の東海道・中山道といった五街道を江戸に向かった。海路は瀬戸内海を利用したという。例えば土佐国(現高知県)山内侯は太平洋に出て大坂へ向かったと今では思いがちだが、当時の船では危険すぎた。土佐の大名ですら安全を考え、土佐と讃岐(現香川県)の険路の峠道を越え、瀬戸内海で御座船【大名自身が乗船する船】に移り大坂へ向かったのである。瀬戸内海の港町はこうした船が行き交う海上交通で繁盛した。そんなわけで牛窓神社にも大変興味深く感じたのである。
 備前(現岡山県)の良港牛窓は特に風待ちや潮待ちで多くの船に利用されたようだ。特に朝鮮通信使が立ち寄った港として名が知られ、江戸幕府の慶賀の時来日した。慶長12年(1607)より文化8年(1811)まで12回を数えている。豊臣秀吉の朝鮮出兵で大打撃を受け、強いては豊臣家滅亡の経緯を知る江戸幕府は朝鮮通信使を大切に持て成したと思える。朝鮮王朝の背後には常に中国王朝の影が付きまとった。

牛窓神社神輿

港町牛窓、ここには歴史ある建造物が今も生き続けている。
人が住まいするこの街に、年毎六角型の牛窓神社神輿が渡られる。

 こうして賑わったと伝わる牛窓の秋祭りは、年毎10月第4日曜日に行われる。文政8年(1825)製の六角型の牛窓神社の神輿が氏子内を巡行、氏子内には龍を施した舟形だんじりがあり、異国情緒が漂っている。異国情緒といえば唐子踊りというのがあり、服装などは唐の国の衣装に類似しており、この踊りの来歴は朝鮮通信使がもたらしたともいわれています。

牛窓神社神輿

駐輿所では神輿の差し上げが行われる。
鈴綱は紅白の捩り、屋蓋は段葺き。

古い形態を残す江戸後期の神輿。

 このように歴史・文化・そしてリゾートの牛窓ならではお勧めが2ヶ所あります。1つは歴史を語る町並みです。ここの建造物は白壁の土蔵、格子戸の家々が軒を連ねており、その美しさは格別でその家並の中を牛窓神社神輿は通ります。ここの建造物は文化財保護の隔離された保存ではなく、人が生きづく生活する町だから神輿も渡御しますし活気があります。もう1つは瀬戸内海に沈む夕日です。祭り拝観後運良くこの夕日を見ることが出来、後日友人との会話の中でこのことを話すと「牛窓だろ」との答え。逆にここは『日本のエーゲ海』と呼ばれる有名な所と教わりました。牛窓の沖合300mには前島という島があり、牛窓神社神輿もこの島へ渡ります。今回ここからの夕日は時間の都合で次回の楽しみにしましたが、この島には江戸時代初期大坂城築城の石切り場跡が残り、この付近の展望台での夕日眺めは最高とか。是非また行ってみたい見所です。
 平成19年3月 © 監物 恒夫 記

交通
  JR赤穂線 邑久駅 下車 車で20分
   岡山ブルーライン 邑久ICから車で20分
 
牛窓神社鎮座地
  岡山県瀬戸内市牛窓町

祭礼日 10月第4日曜日

bottom of page