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神輿紀行(5回) ――宮城 塩竃 鹽竃神社編――

 鹽竃神社は陸奥第一の大社で、帆手祭・花祭・みなと祭の三神幸祭があります。今回は私にとって忘れがたい昭和59年3月の帆手祭について筆を進めます。9日夜半に仙台入りし、翌朝仙台と石巻を結ぶ仙石線の仙台駅のホームへ向かいました。当時の仙石線ホームは東北本線の仙台駅とはかなり離れた東端にあり、地下道で結ばれていました。この地下道がその昔仙石線のホームであったとの事は以前鉄道の本で見たことがありました。このように仙台駅に乗り入れていたそうですが、大量輸送時代を迎えると狭い地下ホームでは限界があり、地上ホームへの切り替えに伴い上記のように東端に駅が造られたので離れているのです。また通常のどの駅でもプラットホームは駅長室側より1番線、2番線とつけられますが、ここ仙台駅はとても変わっていました。東北本線が発着するホームにも仙石線が発着するホームにも共に1・2番線が以前にはありました。今では仙石線仙台駅も大きく変わり、再び地下駅になりました。仙台市営地下鉄に接続することであおば通駅まで延長されました。(仙石線は私鉄として設立されましたが、第二次世界大戦中に国鉄に編入された路線と聞いています。仙石線は電化されていましたので、私の知っている頃の仙石線は首都圏を走っていましたあの茶色の旧型電車が山手線と同じうぐいす色に塗装され、風光明媚な日本三景の一つの松島や、それ以北の松島湾沿いの景観を走る姿は旧型を感じさせないもので、いき生きとしていました。これがあの首都圏で新型電車に混じり窮屈そうに走っていた車体なのかと思ったりもします。)3月とはいえまだ寒い仙台を発車した電車は、車内と車外の気温差からか車窓のガラスがどんどん曇り景色がかすんでゆく。30分位電車に揺られると多賀城駅に到着、ここに在った多賀城が陸奥の国府・鎮守府を置かれた所である。この多賀城の鬼門を守護しているのがこれから参拝する鹽竃神社なのです。多賀城駅を発車して7~8分で本塩釜駅に着く。ここで下車し徒歩で凡そ15分位で鹽竃神社表参道に着きます。参道の敷石は大形で黒くどっしりし、きめ細かく滑らかな岩肌の実に立派な石が、幅広く敷き詰められて流石陸奥の大社と唸らせます。それもその筈で、この石こそがあの有名な稲井石で仙台石とも呼ばれています。この石が全国に広まったのは、明治以降で江戸時代は仙台藩により他国に販売させませんでした。どうして売買されなかったのでしょうか?今とは異なり石は軍事用の要塞にもなり、また楠正成の千早城の石落としのように武器にもなりました。そして大名の権威の象徴は何といってもあの堂々と聳え立つ石垣ではないでしょうか。石高が10万石でも石が採れない土地では石垣ではなく土塁で囲われている城址を見ることができます。鹽竃神社境内にはこの稲井石が数多く使用されていますので、陸奥國総鎮護神として仙台藩の崇敬度がいかほどかが分かります。表参道の表坂は202の石階で、その手前の石鳥居は寛文3(1663)7月7日造立で寄進者は松平亀千代と刻字されています。伊達家は慶長13年(1608)初代当主伊達正宗が松平姓を許されましたのでそれ以降は公には「伊達」ではなく「松平」と名乗ります。亀千代とは第四代当主綱村の幼名で、寛文の伊達騒動はこの代で起こり藩勢は動揺したが藩主は優れていた人物であったらしく、人材登用や産業の発展につとめたことにより藩中興の主と仰がれた当主であったようです。最近では鹽竃神社へ参詣する時は年の所為で裏参道という別のもっとなだらかな道を利用するが、この頃は必ず表坂上ったものでした。しかしこの石階を休みなく一気に上がったことは1度もなく、中途で一休みしてその後はゆっくりと上を目指したものでした。祭り当日は、この上りきった所に鹽竃神社の八角神輿がでーんと添えてあります。

鹽竃神社神輿

神社神輿の風格が漂う。
戸帳が美しい鹽竃神社神輿。

鹽竃神社神輿

出御した鹽竃神社神輿。

 神輿の製作年は享保16(1731)年仙台で新調されたと聞いております。台輪は優に2メートル以上あり、屋根は黒漆で蓋われた美しい照り起りの流れで菊花の大金物がつき八角の二重座の露盤が備わりその上に鳳凰がのる。この鳳凰は現代多く見る屋根幅と同寸の羽をつけた鳳凰とは異なり、小形の鳳凰ですが胸から胴にかけては平板を叩き出す、打ち出しの技法は当時の錺師がいかに確かな腕を持っていたかが伝わってきます。現代の鋳物鳳凰は胴を中心より左右に分け鋳造しそれを合わせるものでは、このような膨らみは出せません。次に蕨手を見ますと野筋(下棟)の先端に付き、この付き方は関東神輿に多く存在します。全体的には関西神輿が持つ優雅さを持ち合わせていますが、この蕨手の位置が関西神輿の隅木先端に付く手法とは大きく異なります。蕨手より垂下する鈴綱もどこにも固定されていないのも特徴です。台輪は二重座で内は勾欄、外は井垣を施していますが、階は付きません。現代に多い階型の御輿とは製作時の基本思想は違っています。

鹽竃神社神輿

小走り進む。舁手交代までは肩を外せない
輿丁の顔にその厳しさが伝わる。

鹽竃神社神輿

みなと祭の鹽竃神社神輿と御座船。

 この神輿を事細かに見ていきますと、細部のここ彼処に製作当時の時代背景が見えます。「奥州に鹽竃神社神輿あり」と謳われるだけのことはあります。拝見するだけで、早2時間過ぎていました。撮影場所確保のために、202段の石階を下ります。上る時は傾斜も強く感じませんが、下るときは流石男坂といわれるように、石鳥居や参道が眼下に迫ります。最近ではあまりにも急斜面の石階に見た目には平気な顔で下りて行きますが足が竦んだり、思わず手摺を頼ることも多々あります。今日は石階を見上げる位置で神輿がお下りするのを待ちます。神輿が石階を下り始めた頃、天気予報が的中し雪が舞い始めました。私は防寒服で身を固めているので、少々の寒さには動じないが駕輿丁の方は白丁着なので寒そうである。出御して3時間を過ぎると屋根は白一色となり、神輿の黒漆屋根の菊花紋も見えなくなり、まるで正絹の織物を蓋せたような姿になっていった。私の胸中では「もうそろそろ中止になるだろう」思ったが、神輿は神社に戻る気配はない。このように雪中渡御をした神輿は最後に休まれる御釜神社に着御された。いよいよ還幸で今では表坂の石階を上りますがこの時は七曲坂口に鞘堂があり、ここに還御なされた。この時ほど伝統の重さを感じたことはなく、神幸祭は単なる儀式ではないことを学びました。


 最後にみなと祭は同一境内鎮座する志波彦神社の神輿も出御され、二艘の御座船で景勝松島湾を巡行されるが、下船後の帰路以前には志波彦神社神輿はすぐに還御され、鹽竃神社神輿のみが氏子内を渡御されたが、今では二社揃いの渡御となる。全国の舁き手不足等の趨勢とは異なる神幸祭を見ることが出来る。 
平成18年4月今、この奥州鹽竃の地に立つと当時が走馬灯のように甦ってくる。 © 監物 恒夫 記

交通
  JR仙石線 本塩釜駅 下車
  JR東北本線 塩釜駅 下車
   高速道路東北自動車道 仙台南ICより仙台東部道路経由三陸縦貫自動車道 利府・塩釜IC
 
鹽竃神社鎮座地
  宮城県塩竃市一森山

祭礼日 3月10日 帆手祭
     4月第四日曜日 花祭
     7月第三月曜日 みなと祭

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