監物恒夫紹介
神輿思惟・御輿思惟
神輿動座オリジナルカレンダー

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神輿紀行(4回) ――大津 坂本 日吉大社編――

 神輿紀行3の日光東照宮の造立については、天台宗の僧である天海(諡号は慈眼大師)の主導で祭神(東照大権現)を久能山より日光山に改葬されました。この根本思想には山王一実神道(日吉神道)があったとされます。今回は山王の根本社の日吉大社と天台宗総本山比叡山延暦寺の成立より話を進めます。日本列島のほぼ中心に日本最大の湖の琵琶湖があります。湖と言っても岸より見る光景は紛れもない海のようでもあります。昔の人は寄せ返す波を見てこの湖を都人は「近つ淡海」と呼んだ。近つ淡海は、浜名湖を「遠つ淡海」と呼んだのに対し付けられた名称なのです。この名称はその後の近江(現滋賀県)や遠江(現静岡県)の古称になりました。京の都より北東方面に見えるのが比叡山の山並みです。その山頂には天台宗の総本山比叡山延暦寺があります。この延暦寺が京都御所からみると鬼門にあたり、御所を守るため日夜祈った道場であると伝えられています。さて、天台宗の起こりは最澄(諡号は伝教大師)が延暦7(788)年に比叡山寺(後の延暦寺)を開創したことに始まります。当時の仏教界は南都仏教が中心でありましたが、その勢力に対し果敢に挑み、その後中国へ渡りそこで学んだ天台密教を広めました。最澄の偉いところは年下の僧にも自尊心など全て捨て教えを受けたことや、中国より学んだ学問は天台宗のみではなく禅なども取り入れた日本独自の天台宗であったことで、鎌倉時代に広まった各宗の開祖が比叡山で修行しているのが特筆すべきことであります。やはり歴史に名を残す人は古今東西どこかが異なるものです。開祖に続き第三代天台座主になった円仁(諡号は慈覚大師)もまた御師匠さんである最澄の後ろ姿を見て育っているのです。円仁もまた中国に渡り勉学に励み比叡山を中心に天台宗の発展に尽くし、比叡山山上の諸堂配置なども今の容になったといわれる。下野(今の栃木県)出身の慈覚大師の開基と記された諸寺や大師作といわれる仏像が多いのは、天台宗が全国に大きく布教された表れであろう。第五代天台座主の円珍(諡号は智証大師)もまた天台宗の名を高めた。歴史に名を残す高僧を多く排出したことに世間が注目したことは当然の成り行きとも言える。そもそも日吉大社と延暦寺の関係は最澄が比叡山に庵を構えた時より始まった。それ以前は日枝山(後の比叡山)が神体山であったと思える。神の山は人間が踏み込めぬ禁足地も多く、人間が踏み込めた所は八王子山(今の牛尾山)の磐座で古代祭儀場と考える。社殿が山下に出来ると信仰の中心が社殿に移っていったのが日吉大社本来の姿と思える。日吉大社には東と西に本宮があり、西の本宮は天智天皇が大津京に遷都した際、大和国(今の奈良県)一之宮大神神社の祭神を遷されたといわれ、東の本宮は地主神で大山咋神である。この神は第1回の神輿紀行の松尾大社の祭神も同じで『古事記』にも登場していた。延暦寺を開創した最澄は日吉大神の加護のもと、未開地の比叡山上に修行場を得ることが出来たのだろう。延暦寺の本尊はあの有名な薬師如来であり、平安時代以降の本地垂迹説では、二宮(日吉大社上七社のうちの一社、現東本宮)の本地仏を延暦寺本尊の薬師と同じであるとしている。延暦寺は日吉大社を鎮守社として日吉山王権現と称し崇めた。延暦寺の名が高まるにつれて、皇室や摂関政治華やかな藤原氏から領有地の寄進を受けそれが荘園に、天皇家よりの出家により門跡寺院として地位が高まった。荘園には天台宗の寺院が、そしてその鎮守社として山王社(明治以前は日吉・日枝神社は山王権現社と呼んだ)が建立され、荘園維持のため衆徒をおいた。これが後の僧兵である。

 神輿に話を移そう。延暦10年(791)第五十代桓武天皇の勅により二基の神輿を造り、日吉山王権現に収められたという。これが天皇の寄進神輿である。この寄進が後の強訴(為政者に対し徒党を組み強硬な手段で訴えること)の際大変な示威を発した。嘉保2年(1095)美濃国(現岐阜県)国司源義綱と同国の山門領(延暦寺領)との争いに山王神輿を山上に振り上げて、義綱流罪を求めたのが強訴の初見である。この神輿動座により京の町は震撼し神輿振りの恐ろしさを始めて知ったが、この時には天皇寄進神輿は京には現れなかった。長治2年(1105)日吉山王権現の神輿が雲母坂を下り初めて上洛した。入京強訴は禁裏を守護する兵も何も出来ず目の前を通り過ぎるのを待ったという。天皇よりの寄進神輿だからこそ出来たことだろう。強訴に関する事は何れまたの機会にどのようにエスカレートし、そして終息に向かったのかを書いてみたい。唯一つ強訴を繰り返すことに、日吉大社の上七社に備わっている神輿七基がすべて揃って動座したものではありません。大抵は日吉山王権現からは三基位、祇園などの延暦寺と関係深い神輿や、時には加賀国(現石川県)の白山権現の神輿も加わり動座したようであった。古書によると最初はうまくいった強訴も数を重ねると防御の陣形も強くなり禁裏まで到達できずに鴨川に振り捨てて比叡山に帰ったり、祇園社に引き返したりしたという。鴨川に振り捨てた神輿は穢れたといっては禁裏に難癖をつけては新調させた。この背景には延暦寺が東塔・西塔・横川(よかわ)の三塔からなり七社の神輿にそれぞれに持分があったためであろう。禁裏職人は天皇より勅がでると前の神輿以上のものを製作しようとした。それが日吉山王権現の神輿となると尚更であったようです。当時の神輿の価値観は今の文化財で好まれる古色とは正反対の黄金色の神輿を求めたのだろう。新調神輿が禁裏御用の舁手により雲母坂を上がり延暦寺側に渡され日吉大社に収まった。その神輿の持分の僧や社人は命がけで強訴をした代償と引き換えに得た最大の贈物であった。新調された金銅装神輿は彫刻の豪華さや織物の優秀さで群を抜いていたので、他の六社の持分の僧は羨ましがり、次ぎは必ず自分達の神輿を強訴に使用したいと思ったと考える。強訴の成功率と反比例する強引な強訴を繰り返す一因と思える。金銅板で蓋われた神輿の輝きは関西神輿の特徴であり、前回の日光東照宮神輿もこの特徴を兼ね備えた逸品であり、日吉大社神輿との共通点も見出せる。現在国指定重要文化財指定の七基の内の四基は荒神事「宵宮落とし」を四百年耐えてきた神輿であった。

近在に日吉大社より下賜された神輿も存在するが、「この神輿は元日吉大社の神輿」と自慢する。大社より譲られた神輿は大切にされ餝金具なども最悪の状態になるまで取り替えないのが常識であります。現在国指定の国宝や重要文化財の神輿の中で、これほど重厚・華麗な神輿は他には見ることは出来ません。わたしは幸運にも数年ですがこの神輿がお渡りするところを見ることが出来きました。あの重量ある神輿が日吉馬場であの鈴綱の鈴を鳴らしながらお下りして行く姿は忘れられません。昭和57年まで使用された国指定重要文化財の神輿の説明と当時の祭礼風景は別の機会にいたします。

4月14日は日吉大社の日吉山王祭の本日で七基の神輿が動きます。この月は桜の季節で日吉馬場には桜花のほか、歴史を刻む穴太積(野面積)の石垣や延暦寺里坊が軒を並べ、その中央を神輿が揺すられて下りて行きますが、昭和に新調された神輿なので天候に恵まれた時などはキラキラ輝かせてその光景は実に美しいものです。そして七本柳まで下り乗船して琵琶湖を船渡御しますが、元々は双胴船に一基づつ神輿を乗せ唐崎沖まで競争させたといいます。唐崎沖にて粟津の御供神事を経て比叡辻にて下船後、真っ直ぐな還幸道を一気に還御します。この前日には宵宮落としの神事があり大政所より振り落とされた四基の神輿が樫の木をまわり鼠社の前まで競争をします。日吉大社の山王祭は13・14日とも競争が付き物であったことが分かります。


 またの機会に紹介しますが日吉大社よりの分霊社にも競争が中心という祭りがあります。滋賀県湖西地方や京都鞍馬の火祭りの神輿神事にも日吉大社の山王祭りとの類似点がみえます。この大社の影響を受けた神社の祭礼が多いことを記して今回は終わります。 
        © 平成十八年  2月立春  監物 恒夫 記

交通
  JR湖西線 比叡山坂本駅 下車
  京阪電鉄石山坂本線 坂本駅 下車
   名神高速道路京都東より国道161号線バイパス滋賀里出口で一般道経由が便利です。
 
日吉大社鎮座地
  滋賀県大津市坂本5丁目

祭礼日 3月第1日曜日御輿上げ
     4月12~14日 日吉山王祭

大政所の上より落とされた四基の
神輿は鼠社まで競争する。

大宮橋を渡る東本宮神輿。
屋蓋の大金物は三つ葉葵。
駕輿丁の鉢巻には桂の小枝が挿される。

比叡辻に着船後、一路
日吉大社に還幸する。

宵宮の落とし。