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神輿紀行(2回) ――宮津 日吉神社編――

 平成17(2005)年4月30日前泊の敦賀(福井県)から、若狭路を丹後(現京都府)に向け一路国道27 号線を西に車を走らせています。今日は待ちに待った丹後の神輿なのです。車窓には穏やかな小浜湾が一面に広がり日和は快晴、直射日光が強いのがちょっとつらい。湿度が低いせいか余り暑さは感じさせない。この頃の天気はお日様が出ると紫外線が強いので要注意。小浜市過ぎると福井県境である高浜町、ここを越えると京都府の舞鶴市である。舞鶴市内を通過すると由良川に架かる橋梁が見え、この橋を渡るとそこは宮津市です。国道27 号線はここまでで、これより右折し国道178号線に入るとこの国道の右手には滔滔(とうとう)と流れる由良川が見えます。広々とした河口付近の雄大な流れからは、昨年10 月20日から21日にかけ台風23号の影響で出水したあの川とは想像もできません。バスの屋根の上でこっこくと水位が上昇していく中、一晩中救助待ち望んだ人々のニュースを記憶されている方も多いと思います。この川の堤防は自然地形を利用しているので、思いもよらぬ天変地異には一溜まりもなかったのでしょう。それ故自然と河川が見事な調和をみせてくれた日本の中でも数少ない川なのです。

 宮津の市街地までの道は海岸線と切り立った崖の間を通る険路路であるが、山椒大夫の屋敷跡などの見どころもあり、なかなか楽しいところでもある。宮津は江戸時代までは城下町であった。城郭は明治の時取り壊されてしまったが、町筋は「これが典型な城下町」の名ごりといえる道幅は恐らく江戸時代と同じであろう。だからこそ近所付き合いを大切にさせ、その連帯を「向こう三軒、両隣」や「遠い親戚よりも近くの他人」という言葉も生み出した道幅と言える。そして道幅が広くなるにつれてこの言葉の意味も忘れられたのだろう。瓦屋根が連なる家並みと道の絶妙なる調和が一層町の景観を引き立てるのです。私は東京の有楽町より皇居方を見ると、いつも見るに堪えられないものがある。皇居の森のうしろにそびえるビルのアンバランスである。空との調和がより森を美しくみせるし、またその手前の江戸城の櫓も森との調和をみせているのに・・・・・・。昭和39 年東京オリンピックの時、欧州の国々では絶対考えもしないことを、日本では平気で全国道路の起点である日本橋の標柱の上を高速道路が跨ぐ方法とりました。この国のある一面では「日本特有の文化」を持つ国といいますが、上記のような美観ではとても文化国家とはいえないと思います。
 この宮津の街に年毎、元治元年(1864)新調の神輿が渡御する。神輿は日吉神社の神輿で祭礼は元旧暦4月中の申日であったが、現在は5 月15日である。

宮津 日吉神社神輿

出輿。

宮津 日吉神社神輿

鳥居より反橋にかかる神輿。
この神輿は出輿より還御まで
すべて肩で舁き通す。

 神輿は宮津藩主の寄進と聞いていますが、その屋蓋には、ときの藩主本庄家の家紋が燦然と輝いています。本庄家といえば、東京で身近なものが墨田区横網にあります。大川(隅田川)より取水した回遊式の庭園で現在は墨田区所有で安田家より寄付されたものなので「旧安田庭園」とよばれています。これこそが江戸時代宮津藩本庄家の庭園だったのです。 日吉神社神輿に漂う気品は、60年ごとの甲子年には例祭とは別に式年祭をし、その時には神輿を新調するという仕来りがあったといいます。60 年しか使用されていない神輿なのでまだまだ使用可能ですが、仕来りゆえ新調される神輿は旧神輿以上に豪華に作らせたと考えるのは自然なのです。肉厚の錺金具が神輿全体を蓋( おお)い、彫金の確かさが伝わってきます。

宮津 日吉神社神輿

漁師町の宮津漁港が最初の駐輿所。
肉厚の金物が神輿全体を覆う。

宮津 日吉神社神輿

城下独特の香りが漂う神幸道(みゆきみち)

 そしてこの祭礼は藩主の参勤交代と密接なる関係が深かったようで、藩主が国表にいる場合は大祭を、藩主が江戸表ならば小祭であったといいます。ここ宮津でも1年おきに、江戸でいう表祭りと陰祭りがあったようです。日吉神社の神輿は江戸時代宮津城大手門より入御、波路門より出御し波路の御旅所へ向かいました。おそらく宮津城内で藩主自ら神輿に奉幣したことでしょう。また城下町特有の道筋のため、轅の長さが決められ、舁手は40 人である。 本来舁手は漁師町と決められていましたので、強肩の方が多かったのでしょう。私が始めて日吉神社神輿を拝見した時の驚きと忘れられない衝撃は舁手全員が素足だったことである。いつ頃より裸足で渡御されたのかは判明しなかったが、100 年以上の歴史はあるようである。江戸時代参勤交代の通行の際、伝令が素足だったとか、祭礼の際これも使いが素足だったりするのが文書や現状例を上げ別の城下町の時書いてみたい。現在の環境では素足では酷である。巻頭にも書いたとおり天気の時は肌を刺す日射、アスファルト上の熱はいかに足の裏が厚い人でも耐えることは困難でしょう。宮津の人の足はさぞかし丈夫なのかと思えた。重量ある神輿に上からおさえられ、足元からは火渡りのごとく、顔は歪みながら行く様はこれぞ伝統と思わずにはおれない。平成14(2002) 年より白足袋着用になったが、日吉神社神輿渡御の伝統が一つなくなる寂しさより、よくぞここまで伝統を守ったことに拍手を送りたい。

 今日の目的地はもっと北なので、宮津の市街地を後にする。しばらくすると日本三景の一つ天橋立が右手にみえる。この松並木も昨年の台風 23号の被害を受けたと聞く。車はなおも北を目指す。
        © 平成十七年  10月土用の日  監物 恒夫 記

交通
  JR線西舞鶴または福知山より北近畿タンゴ鉄道に乗り換えて宮津駅下車
  高速道路 京都縦貫自動車道 宮津・天橋立I.C
 
 日吉神社鎮座地
  京都府宮津市宮町滝上公園

祭礼日 神幸祭5月15日

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