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神輿解説 第十三回 神奈川県平塚市中原 日枝神社 (神奈川県平塚市中原3-20-16)

  令和元年(2019)5月 記

 平塚市中原を起点とする中原街道は古来東海道の一部であったようで、江戸時代東海道が整備されると江戸と相模国中原宿とを結ぶ東海道の脇街道になった。江戸と平塚宿との主街道である東海道を通行するのは参勤交代などで道を指定された武士が主であった。武士以外の多くの人はこの中原街道の方を好んだようだ。何故ならばこの道は古来東海道の一部だったので道本来の直線で目的地を結んでおり短距離で便利であった。人が利用すると荷駄もこの道を多く行き来したようだ。徳川家康が江戸へ入った際も、この道を利用したという。

 

 中原には御殿があった。御殿は将軍が旅に出ると休憩や宿泊所として利用した所である。この御殿はお鷹狩りが著名で、将軍が入られると本陣となり、日光社参同様に多くの大名が随行した。御殿周辺には諸大名が陣を張りお鷹狩りが行われた。中原周辺にはお鷹狩りに関する地名が多く存在する。中原街道には中原の他小杉に御殿、下川井には御茶屋があった。御殿、御茶屋がこれだけの建物を設けたのは徳川家がこの街道を頻繁に利用した表れである。お鷹狩りは郊外での物見遊山ではない。実戦を磨くための訓練、演習であった。

中原の御殿にも鎮守社が祭祀された。徳川家が最も崇敬した山王権現である。

 山王総本宮の日吉大社にも、日光東照宮にも、江戸赤坂日枝神社にも徳川家の崇敬の高さが由緒でわかる。日光東照宮の祭礼は百物揃千人行列が有名ですが、この行列は久能山より日光山へ改葬されたものを模したものである。家康が元和2(1616)年死去し遺言により翌3年に前年久能山に埋葬された家康の霊柩は3月15日久能山を出発し、20日中原の地を通行したという。山王社は明治を迎え神仏分離で日枝神社と改称された。

 

 平成30年は神輿保存会発会40年の記念の年であった。11月4日、記念の神輿渡御が行われた。

久々に神輿と対面、この年の8月に修復を終え美しい姿で迎えてくれた。最初に感じたことは捩りで、以前観た時と同じ捩り掛けである。最近は鈴を鳴らす流行の為か捩りをビンビン張ってくる。江戸時代や明治・大正時代作の傑作である相模の神輿も流行の捩り掛けでは枡組・屋蓋・蕨手に負担が掛かりすぎて破損や割れが生じるであろう。

 これでは一過性の流行を優先させるのか?神輿本体に無理をかけずに捩りを掛ける昔の捩り掛けを優先するのか?今、選択の岐路であると思う。私は後者を選ぶ。あの独特な優雅な屋蓋の流れや西の神輿に通ずる太い身部は、残念ながら最近作にはあの美しさを観ることは殆どない。今回日枝神社の氏子の方とお話することが出来た。日枝神社も捩り掛けは戦前から変わっていないとお話された。そして井垣の錺金物をプレス製の錺から昔の写真では彫金であったのでこれに戻したという。木鼻の獅子鼻に一つだけ舌を出しているのがある。日光東照宮でも一つだけ他とは異なる木鼻彫刻があり、彫刻師が中原御殿の日枝神社の神輿という事で、もしかしたら日光東照宮の事を知っていて参考にしたのではないかと想像するとロマンが楽しめる。古い神輿にはこうしたロマンを沸き立たせる夢がある。

目立ち難いところにも気を使い、流行に左右されない歴史を大切にされる気風に「温故知新」が頭を過る。

 

 昭和39(1964)年以前までの還御には山車が5台居並び、その前を神輿が還御されたという。記念渡御の今回は山車5台の内の4台が居並ぶ前を神輿が舁つがれた。神輿好きにはたまらない歴史を現実に見せてくれた。

居並ぶ山車の前を舁つがれる神輿。

これが歴史の再確認。

日枝神社神輿

祭りとは継承されるべきものといわれるが、現実に再現されたことに祭りの本質を見せて頂いた。

還御した神輿。